堺市に住もう!堺市特集


境界の町から世界の中の堺へ
境界の町・堺堺市(さかいし)は、近畿地方の中部、 大阪府の中南部に位置する市です。

大阪府では人口・面積が2番目に大きい都市。2006年4月1日に日本で15番目・ 近畿地方では4番目・大阪府でも大阪市に次いで2番目の政令指定都市に移行した。 堺の地名は摂津、和泉、河内の3国の「境」に発展した町である事に由来する。 また、長い間日本の首府であった京にとって、西国との境界でもあった。 河川や辻や峠などの「境」は、様々な人々と物が往来し、「ここ=此岸」と「かなた=彼方」 即ち異界が交差し、神や鬼によって未知の情報や富がもたらされる場所でもある。
大阪・大阪市・堺市・地図
堺 もとより堺は、陸上交通網が集中し、複数の文化が混交する事によって、新しい文明が生み出されてきた。港町としての堺は、応仁の乱の勃発をきっかけに、兵庫に代わり日明貿易の港となった事により、飛躍的に発展していった。
更には琉球を介しての南蛮貿易にもかかわり繁栄を遂げる。 堺は西洋との交易地として急速にその姿を変えながら、それまで日本が出会った事のない新しい文明の洗礼を受ける事になる。

世界の中の堺
発祥の堺
堺堺町のある都市
堺商人が全国で活躍した証しとして、旧城下町から発展した都市には
「堺町」もしくは「栄町」という地名が今も残っている。
・「堺町」もしくは「堺丁」がある都市
- 岸和田市、大和郡山市、和歌山市、姫路市、津山市、倉吉市、広島市、高知市、
北九州市(旧小倉市)
・「栄町」もしくは「栄」がある都市
- 青森市、 会津若松市、水戸市、千葉市、佐倉市、甲府市、金沢市、福井市、静岡市、浜松市、名古屋市、岐阜市、彦根市、岡山市、浜田市、徳島市、久留米市、佐世保市
・「堺筋」がある都市 - 大阪市、富田林市

利休と堺
千利休国際交易都市として栄えた16世紀の堺は、中国や西洋からの多彩な文物がもたらされ、日本国内の最新情報センターとなった。 連歌師をはじめ、多くの「文化人」が堺を訪れ、あるいは移住し、伝統文化と先進文化の出会う町となった。 商業と文化、そして軍事的にも重要な町として成長しつつあった堺で、豪商魚屋の長男として田中与四郎、 のちの千利休(1522〜1591)は誕生する。

利休の少年時代は、茶の湯の変革期である。 12世紀に天台僧、栄西によって中国から抹茶法が伝えられ、14世紀半ばには茶会が行われるようになるが、当初は椅子に座って満喫する唐風の茶札だったように、中国の文物に対する関心、いわゆる唐物数寄が高揚する。そんな中で坐礼の書院茶の湯の様式が確立し、次第に唐物から和物のもつ素朴な美に関心が向けられていった。 利休の少年期は、茶の湯が普及し、町衆間、あるいは武家と町衆の間で茶会が催されるように、茶の湯の形式が発展した時代だった。


堺堺の町衆が茶人として活躍する上で、大きな役割を果たしたのが、禅宗寺院、南宗寺である。とりわけ、豪商、武野紹?の参禅はその後の手本とされ、茶の湯が禅の影響を受ける契機となった。「茶禅一味」を唱え、四畳半の茶法を推進した茶の湯のリーダー紹?の下に、19歳の利休が入門することになる。四畳半以下の茶室を用いた簡素な茶の湯、これを「わび茶」と呼び、何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の考えの基、珠光の弟子の宗珠、武野紹鴎らがわび茶を発展させ、千利休がこれを完成させたと考えられている。

堺千利休はわび茶をさらに発展させ、国産の道具を用いるだけでなく自身で器具を積極的にデザインし、職人につくらせた。
利休の時代、利休が作らせた楽茶碗は、代表的な唐物である天目茶碗と違って粗末な道具とされていた。また利休は高麗茶碗や呂宋壺などの輸入品も用いたが、これらは産地では雑器扱いの大量生産品であった。そのほか、彼は自身で竹を切って作った簡易な道具も用いた。

堺利休は茶を飲む空間にも革新を行った。現在でいう茶室の概念が成立したのは近代以降であり、利休の時代には茶を飲む空間は「座敷」「囲い」「数寄屋」と呼ばれていた。これは基本的には書院造の部屋に畳を持ち込んで茶席とするものであった。一方、利休は「待庵」に代表される、極端に狭く、茶を立てて飲む、茶だけのために設計された茶室を作った。現在の茶室でよく見られる躙り口も利休の考案であり、彼以前には縁側から障子を開けて茶席に入っていた。

また、「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、 茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。

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